kimunori10’s diary

マラソン、スポーツ、トレーニングを中心とした雑記ブログ

2020年は生涯忘れることのできない1年に

人は平均して80年は生きます。私は、35年生きてきました。
 
平均寿命まで生きるとすると、もうすぐ人生の折り返しということになります。
しかし、今はまったくといっていいほど、歳をとったという気がしません。
 
なぜなら、仕事でまだ何かをやり遂げたことがないですし、結婚もしていません。
ましてや、他にもまだやり残していることばかりだからです。
 
人生は、後戻りはできません。だから、1日1日を大事に生きていかなければいけません。
 
しかし、歳を重ねていくにつれて1日1日、1年1年の重みが変わっていきます
 
歳をとると1年1年が早く過ぎ去る、という声を耳にすることがあると思います。
そのことは、人間ならだれしもが通る道なのです。脳科学的にも、心理状態においても、それは実証されているみたいです。
 
ただ、2020年という年に関しては、また違った意味を持つ1年になりそうな感じがします。
それは、例年とは違う日常を送る機会が多かったからです。
 
これは、日本にいる人だけでなく、世界中の人がそう感じるのではないでしょうか。
 
外出ができず、自由に外に出られない生活。日用品を買い占める生活。学校や職場にすら行けなくなる日常。イベントごとや行事関連が次々と中止になる。等
 
それに、店が続々と閉まり、静まり返る繁華街。スーパーやコンビニ等ではマスクや日用品の買い占め。マスクを着用していないと中に入れない。等日常の風景が一変しました。
去年では全く想像すらできない、考えられない年になってしまいました。
 
ただ、地球が誕生して何千億年、人間が誕生して何千年、歴史に残る年でもたった数年の出来事です。しかし、1日、1か月、半年、1年と過ぎても事態が好転して、世界中の人々が平和に暮らせるかと言われたら話が変わります。
世界には、いろんな人がいて、1日を生きるのに必死な人が多くいます。
私は、そう思うと恵まれているのかもしれません。
 
ただ、未来のことは誰にもわかりません。
最近まで元気だった人や周りから見て、普通に生きているように見えた人が数日後に急に病気になり亡くなる、あるいは翌日に亡くなる、なんて言う話はよくあります。
そして、そのことが結構身近に起きていたりもするのです。
 
世の中はそれだけ不確実性の高い、予測不能な世界へと変わったかのように感じます。
おそらく2月の初めくらいまでは、まだ日常の世界、通常の生活を全国民が送っていたのではないでしょうか。
 
しかし、1月くらいから徐々に雲行きが怪しくなっていきました。
そして、3月頃には世間全体、そして世界中がどこか闇に覆われてしまったかのようになりました。
4月は、外出を自粛する動きやイベントの制限等で、ほとんど外に出られない状態でした。
以前の記事でも書いたことがありますが、私の趣味のマラソンイベントは、軒並み中止になりました。今年はほとんど開催が中止になっており、来年も春頃までは中止が圧倒的に多いです。
 
私は、外出するのは仕事くらいで、プライベートでどこかに行くのも、世間の風潮や呼びかけがあったため億劫になりました。そして、休みの日は家にずっといるような状態が続きました。
 
海外のとある国では、外出したら罰金や刑事罰を科す国すらありました。
それと比べたら日本は、まだいい方かもしれません。
 
ただ、そのような報道はどれも暗い話題が多く、明るい話題はほとんどありませんでした。
先行きが見えない霧の中を彷徨っているようでした。
 
その時、多くの人は正しい、真実の情報が欲しいと思っています。
 
私もデマやにわかに信じられないような報道やニュース、世間話をよく耳にしていました。嫌でも耳にする情報は確かに存在します。
それらを取捨選択ができる状況に、私たちは身をおいています。ただ、そのことは容易ではありません。
 
現代社会では、だれとでも、いつでも、どこでもつながれる時代です。
コミュニティや組織からそういった情報網から遮断できますが、現代社会ではほぼ不可能に近いと思います。
 
職場に行かずに、自宅で仕事をする「テレワーク」が今年大流行しました。
それは、以前から1つの働き方の選択肢としてありましたが、今年は社会がそれを求めるようになったため、一気に導入する企業が増えました。
外に出ずに、家の中でインターネットや電話で他者と繋がれます。
コミュニケーションが図れるし、テレビ電話なら相手の顔が確認できます。
 
しかし、ずっと家に引きこもるような生活が続くと、人はどうなるのでしょうか。
今までの生活から多少なりとも、生活様式は変わっています。
 
だから、ストレスというものは少なからず存在します。対面で会うことが好きな人や、対面で会うことが多かった人にとっては、大きなストレスとなるでしょう。
この点に、一種の「」の部分が存在すると思っています。
 
生活が一変するような出来事、例えば大災害後の生活、リストラ後の生活、近親者の死等、人によって大小の差はあれど、どれも人生に影響を及ぼすようなことになる可能性があるということです。
 
自分の人生の指標や比重は、どこに重きが置かれていますか。
もしそれがある日、突如として崩れ去ったら、どんな精神状態でいられるでしょうか。
 
「生と死」の壮大なテーマに発展しそうになりますが、いつ何時そのような場面に向き合うことに
なるか、人生わからないものです。
 
私は、30歳手前にして一瞬「」に直面しましたが、多くの人は死にたくないと思って生きているはずです。
 
言いにくいのですが、何度も「死にたい」と思ったことがあります。
しかし、「」というものを現実に考えた時に、私は恐ろしくて無理だ、と思いました。
 
みなさんも1度は「生と死」について考えたことがあるかもしれません。
それは、自分のことでなくてもいいと思います。身近な人が亡くなったときに、そのことを
考える機会があるかもしれません。あるいは、とても大好きな人の死でもいいでしょう。
 
もちろん、悲しくなり、辛い気持ちになり、いたたまれないくらいに胸が締め付けられる
状態になるのではないでしょうか。
 
幼い頃に育った環境にも影響しているのでしょうが、幼い時に身近に「死」を経験すると、その後の人生で精神状態が強くなるか、弱くなるかに分かれる気がします。
 
その人にとって重大な分岐点になるため、生き方や考え方に影響を及ぼすことが多くなるでしょう。そして、そのことを考えることはネガティブなことでも、悪いことでも、不謹慎なことでもありません。
若い時からお墓を買う、また最近「死活」という言葉が流行っているように、自分の死の前にいろいろな考えや、財産、遺品等、身の回りの物を整理することが流行っているくらいです。
 
どうしても、世論やニュース、報道でのイメージが、ネガティブな方向に流れていってしまっているのでしょう。
しかしこれは、新たな生命の誕生に置き換えても似ているかもしれません。
 
」というと動物や赤ちゃんの誕生の瞬間は、誰もが微笑ましく思うときではないでしょうか。
ただ、「」というのは自分の意思ではできません。人と人との意思で誕生した新たな命です。そこに、生と死の違いはあるのでしょう。
 
このご時世ではありますが、「生と死」「生命」とは何かということを、改めて自分なりに考えてみました。
新たに生まれてきた命は、絶対に大切にしなければいけません。
 
そして、命は尊いものです。人は、弱い生き物です。
でも、辛くてもどうにかなります。困っている、そして苦しんでいる人がいたら、助けるのが人間のいい所です。
何もない日があってもいいし、何が大変なことがあったとしても、それはその人の人生の一部なのです。
自分のことで精一杯で全然構いませんし、他人のことは構ってられなくてもいいと思います。
 
自分を大切にすることが改めて大事でもあるし、人と人とのつながりとはどういうことなのか、身近な人に置き換えて考える、いい機会になる1年になるのではないでしょうか。
 
本日も最後までお読みいただきましてありがとうございました。