kimunori10’s diary

マラソン、スポーツ、トレーニングを中心とした雑記ブログ

なぜ仕事が続かないのか~パート7

正月に倒れて意識が回復したときは、集中治療室のベッドの上でした。
 
目を覚ました時は、まさに別世界。
私の母親と兄がベッドの近くにいて、親戚もいたと思います。
人工呼吸器と脈拍計がついていて、ほとんど身動きができないので、冷静に状況を把握しようとしますが、どうもわけがわかりません。
 
ただ、自分の恰好や周りの状況、周囲の慌ただしさから、ただごとではないと思いました。
 
このときはとにかく、1日が長く感じました。
基本的には、医師からの経過観察や看護師さんが来てくれはするのですが、その時間はわずかなので、テレビを見るか寝ることくらいしかできません。
しかし、文字を読むことやテレビを見ることすら意識が回復してからも数日、いや数週間近くはかなり困難でした。
 
どういうことかというと、真っ暗闇の世界から急に明るい世界へ、夢の世界から現実の世界へ連れてこられたような気分でした。それに脳や状況がついていかなかったのです。本当にパニック状態でした。
 
容体が落ち着いてきてから、しばらくしてようやく歩けるようになったり、お手洗いに行けるようになったりしたのですが、付き添いが必要な状況でした。
今までできていた日常生活の当たり前のことが急に困難になったので、かなり戸惑いました。
 
そして、今まで日常を普通に過ごせる状況や人の支え、手助けをしてもらっていたことがとてもありがたいことだと身にしみてわかりました
 
この時はまだ28歳です。この若さで、大病を患ったことを今後の一生の糧にして、命を大切にしなければならないと改めて感じました。
それと同時に、私は家族に感謝をしなければなりません。家族がいなければ、私の命はおそらくなかったからです。
一人で今後生きていけるかもしれません。しかし、人の支えは必ず要ります。
 
私は、今まで幾度も家族に助けられてきました。このブログでも何回かそのことを書かせてもらっています。
正直、心配や苦労ばかりかけています。そこは、本当に心苦しかったです。
 
後戻りはできません。だから、前を向いて歩みを進めていかなければならないのですが、頭の中で考えることは、あの時の後悔の念や自責の念が浮かんできてしまいます。
 
 
しばらくは、入院と治療の日々でした。
入院中、お医者さんから病気の説明や原因、症状、経過等を聞かされていました。
しかし、肝心のはっきりとした原因はあまりわかりませんでした。
 
私の病気の症状を少し詳しく説明します。
もともと心臓の弁が弱く、そこに強い負荷が加わって弁が壊れました。通常は一方通行のはずの血液が、逆流してしまいました。倒れた時は、脳に血液が流れてしまい、その血液の成分によくない菌が混じっていたみたいです。以前出ていた高熱もその菌が悪さをしていたことが原因でした。
脳に悪い血液が流れ込んでいたので若干、脳梗塞気味になってしまいました。
 
 
幸い、早く処置をしていただいたので、後遺症は残らずに済みました。問題なのは、なぜこのような大きな病気になってしまったのかということです。
 
あくまで憶測なのですが、
倒れる前の血液注射が原因なのではなかったかということ
鉄だけではなく、いろいろな成分を血液の中に取り込んでしまったことで、身体の細胞が異生物が混入したと錯覚し、それをやっつけようと他の細胞が頑張った結果、身体の免疫が崩れていき、それが外部に症状として現れて、高熱等の症状を繰り返したこと。
 
・フルマラソン等で身体的な疲労が積み重なり、それにプラスして免疫力が低下したこと
悪い細菌が身体の中に入り込んで風邪をしまい、それが積み重なってしまったこと。
 
思い当たる節のある病気や、先日まで通っていた病院や治療のことを医者から聞かされましたが、結局のところはっきりとした原因はいまひとつつかめませんでした。
 
ただ、1つ言えるのは、身体を無理させすぎてしまい、免疫状態が悪かったことが大きいと思っています。
 
 
集中治療室を出て、一般病棟に戻ってからも、あと何日で退院できて、手術はするのかどうか、先生に聞いても曖昧な返事でした。
やはり、1日が長かったです。
日々の生活のありがたみをしみじみと感じながら、長い入院生活を送っていました。
 
入院中の楽しみは、テレビを見るか新聞を読むか、食事をするか、くらいです。
あとは、2日に1回くらい数時間くらいですが、私の母親が来てくれました。電車で片道1時間半以上かけて、来てくれた母親には感謝してもしきれません。
その時に母親と話をしたり、お菓子を食べたりしているときも楽しみでした。
 
時折ある検査や点滴、薬の投与、診察。
1日も早く回復できるように治療に専念することと、お医者さんを信じることくらいしかできませんでした。
 
 
ちなみに、私はまだ会社員なので職場に席はありました。
その時は、退院したらまた職場に復帰できるものと思い込んでいました。
たまに、社長がお見舞いに来てくれましたし、ときどき職場の同僚とも電話で近況の報告をし合っていました。
電話では、「早く戻ってきて、とかみんなが心配してるよ」とか励ましの声をいくつもいただきました。その声を聞くたびに、早く職場に復帰したいと思っていましたし、できるものだと信じていました。
 
 
当初の予定では、3月の末ごろに手術をして、4月の上旬には退院ができるという説明でした。
しかし、私が院内でインフルエンザに感染してしまい、手術の予定が延期になってしまったのです。
そのことで予定が変わり、いったん退院してから4月下旬に再入院して、その1週間後くらいに手術をすることになりました。そして、経過がよければその1週間後くらいには退院できるとお医者さんから聞かされました。
容体がだいぶ落ち着いてきたもあり、1月の頭から入院生活をしていたので、3月の末頃に一旦退院してもいい、とお医者さんから言われました。
 
そのときは、先行きが見えたことと、外の空気がやっと吸える、母親の手料理が食べられる、家の布団で寝られる、など数多くのしたいことが頭の中を駆け巡りました。とにかく、ほっとしたことを覚えています。
 
ちょうど退院する頃は、桜の咲いてる季節で、公園に咲いている桜を1人で毎日のように眺めていたのを今でも思い出します。
一方で、このときの心境は不安の方が大きくて、希望はほんの少しという感じでした。
 
一時退院をして、数日は実家に帰りましたが、1人暮らしをしていたので、すぐに福岡に戻りました。それに、早く同僚たちに会いたかったのです。
 
もう4か月近く一人暮らしをしていたアパートに帰っていなかったので、やはり帰ってきてからは新鮮な感じでした。
 
そして、すぐに職場に向かいました。職場の人は温かく迎えてくれました。
顔見知りの会員さんは大丈夫か、と声をかけていただきました。
この頃は、薬の投与の関係で、顔がむくんでいて体重が点滴等の水分量の増加で太っていました。また、顔色もよくないので、いかにも病人という感じだったと思います。
 
同僚とは、電話で週に1回くらいの頻度で話をしていたので、お店の状況はなんとなくつかめてはいました。しかし、実際に現場に行ってみると、状況の変わりように愕然とした記憶があります。
それもそのはずです。4か月近く職場で働いていません
 
この時は私はまた、この職場で働けるものと思って職場に来ていました
 
ほんの数週間の退院生活ではあまり行動できないですし、なるべく安静にしておくようにと、お医者さんから言われていたので、そのときは運動ができないストレスを、食べることで発散していたように思います。
私の心の中では、手術をしてどうなるかわからないから、と束の間の退院生活をできる限り満喫しました。
 
大手術は初めての経験になるので、本当に不安でしょうがなかったです
もし手術が成功したら、また元気な体になって運動や当たり前のことができる。
そう思うようにして、手術までの日々を過ごしていました。そして、再入院までの日は、あっという間に過ぎ去りました。一時退院生活は、20日くらいでした。
 
4月下旬に再入院をしました。ここからの1日、毎時間、毎分は恐怖と不安の状態がずっと続いていました心の拠り所は、近くにいる親や家族、親友や職場の同僚たちでした
 
あとは、お医者さんを信じるだけでした。
再入院から約1週間後、ついに心臓の手術をすることになったのです
 
 
本日は、ここまでにしたいと思います。
私の当時の心境を中心にお話ししました。
本当は、いろいろありすぎて、全てを書ききれませんでした。
1日1日が長く、もちろん初めてのことなので、断片的な出来事を必死に絞り出した状況なので、意味不明な点があると思います。その点をご容赦ください。
最後までお読みいただきましてありがとうございました。