kimunori10’s diary

マラソン、スポーツ、トレーニングを中心とした雑記ブログ

なぜ仕事が続かないのか~パート8

前回の続きから書いていきます。
 
手術は、8時間近くに及びました。
 
全身麻酔だったので、目を覚ましたら集中治療室にいました。
手術をしてから、1日~2日は食事ができず、点滴を打ち続けていたことと、全身麻酔の関係で立ち上がることはもちろん、起き上がることができないので、しばらくはぼーっとしていた記憶があります。
病室は看護師さん等の限られた人しか入れないですし、ほとんど1人で過ごすので、何もすることができず孤独でした。
 
それから、2日後くらいに一般病棟に移りました。
ただ、右の肋軟骨を切除してから心臓の手術をしているので、傷口周辺はかなり痛みました。痛み止めがないと、ずっと痛いですし、薬の効き目がなくなったら、看護師さんを呼んでから、痛み止めの処置をしてもらっていました。
 
これは、事前に聞いていたよりも、想像以上の痛みでした。この時は、食事すら満足にできないので、点滴で栄養を入れてはいましたが、あまりの痛みで動くことすら困難で、全然眠れませんでした。本当に辛かったですし、二度と同じ経験はしたくないと思いました。
 
 
私の身体の心臓の弁は、生まれつきあまり強くないらしく、幼いころにも血液が逆流し、口から血を嘔吐して救急車で運ばれたことがあります。
それからは、その症状は出ていませんでしたし、健康でした。
 
まさか、このような形で症状が出てしまい、しかも手術をすることになるとは思いもしませんでした。
ちなみに、私のこの心臓の病気の名称は、「僧帽弁閉鎖不全症」といいます。
弁は「生体弁形成置換術」という方法で手術をしました。
 
実は、弁の手術をする前に、お医者さんと親と3人で、手術の方法をどうするのかの話し合いが行われました。
意外とあっさりと私が上記の方法で決めたのもあるのですが、もう1つの選択肢があって、それは「人工弁形成置換術」という方法でした。どちらにもメリットとデメリットがあります。
手術の方法は、文字通り人工で作られた弁を心臓に取り付ける方法です。
「人工弁形成置換術」を行うにあたり最大のデメリットだと感じたことは、「1日に1回は薬を飲まなければならない」ということでした。メリットは、「もう心臓の手術はしなくてもいい
ということなのですが、上記のデメリットの煩わしさに懸念を感じました。
 
もう一方の「生体弁形成置換術」と呼ばれている方法は、他の動物の弁を人の身体に移植して行う方法です。
この手術方法のデメリットは、「経年劣化するため、およそ30年くらいの周期で、弁の入れ替えの手術を行う必要がある」のだそうです。ただ、薬の服用がありません
上記の方法は、人に合う合わないがあるみたいです。どちらがいいとかはないみたいですし、どちらを選ぶかは本人の意思で決められます。
 
私が「生体弁形成置換術」で手術をしたい旨を親に伝えると、親もそのほうがいいと同意見でした。
ちなみに、手術をしてから6年近くが経ちますが、1年に1度の検査では、今のところ大きく異変が生じるようなことは起きていません。心エコーや心電図の検査でも、正常に弁が機能していて、心臓以外の箇所も問題ないとお医者さんからもですが、検査でもそのように出ています。
 
結論を言うと、心臓を手術してよかったと思っています
手術をしてから、痛みとの戦いはありましたが、トータルで見ると、リハビリは順調に進んで、
無事に1週間くらいで、退院することができました。
 
私は、1月の1日に倒れてから5月の連休明けまで、ほとんど入院生活を送っていました。
そのため、約5か月間もの間、仕事はおろか普通の日常生活すらまともに送っていませんでした。
だから、日常生活のリズムを徐々に整えながら働ければ、と当初は考えていました。
 
しかし、その思いとは裏腹に、私に告げられたのはあっけない結末でした。
それは、戻れる職場はもうない、という事実でした。
 
後から知ることになるのですが、実は、手術をする1か月前にすでに、その当時在籍していた職場の正社員として、働けなくなっていたのです。1月から休職して、4月までの3か月間、働いていないからという理由です。
 
たびたび私が入院していた病院に、社長が来ていました。その時の会話で、もう治療に専念したほうがいい、仕事のことは考えなくてもいい、と言われていました。
私は、その言葉通りに受け取っていましたが、実は私が会社を辞めて「無職」の状態で、という前提条件があったのです。
てっきり「休職」にしてもらえていると思っていた私は、言葉にならないくらいにショックでした。もちろん、私の親や友達にも話しましたが、親はそんな会社はさったと辞めたほうがいい、と言っていました。
友達は、納得がいくまで上の人と話し合ったほうがいい、と言ってくれました。
 
しかし、私としては、辞めるにしても伝え方がもっと他になかったのか、と憤りを覚えていました。
また、約2年近くもの間、正社員としてきちんと働いてきたのに、こんなそっけない終わり方なのかと、とても残念で悲しく、やるせない想いにもなりました。
 
たしかに、やんわりと、なんとなく書面と口頭で、社長が私に手術前に伝えてくれてはいましたが、はっきりとした説明ではありませんでした。小さい会社で、社内規則等の細かいことや決まり、ルールがないのは事実です。
 
しかし、手術をしてしまった私の身体で、いつトレーナーとして働けるかわからないけど、リハビリをしながらできる限りの業務をして働きたい、というようなこと、そしてまた、非正規雇用でもいいし、再雇用でもいいので採用してくれないのか、と私は社長に口頭と文章でも伝えましたが、聞き入れてもらえませんでした。
 
このときの心境としては、私が担当していた会員さんにもう教えることができないのか、という残念な気持ちと、会員さんから「いつでも待っています」という言葉に応えることができなかった無念さがすぐに頭の中を駆け巡りました。
あとは、この会社でやっと軌道に乗って働けてきて、仕事をやれてきたときに倒れたので未練さとやり切った感のなさ(不完全燃焼の状態)がありました。
私はしばらくの間、ショックで精神的に参っていたことを思い出します。
 
数日間、いや数週間近くは、うまく切り替えられないまま、この先どうしていこうか、ともやもやした気持ちが残っていました。
やはり、また以前のように振り出しに戻るのかという辛さ、悔しさ、無念さなど、様々な感情が交錯していました。福岡に引っ越してきたばかりの状況に、また戻ってしまうと思ったからです。
とは言っても、生活しなければならないですし、仕事をしないとお金がありません。
 
一応、就職活動はしますが、まだなにかやりきれない気持ちが残っていました。
 
 
そして、しばらくしてから私に、ようやくかすかな光が見えてきたのです。
退院してすぐに、ハローワークに行っていました。
そこで、職員の人と今後のことを相談をしていると、トレーナーを養成する学校が県内にあり、そこは雇用保険をもらいながら受けられるので、今のあなたの状況にぴったりだと言うのです。
 
私は、すぐにそこに行こうと決めました。運よくギリギリ募集期限内に間に合い、応募することができたのです。後から聞いた話によると、少しでも躊躇していたり、行くタイミングが遅れていたりしたら、入れるかどうかわからなかったそうです。
それから数日後に、面接試験を無事に通り、退院して約2か月後くらいにその学校に入校し、また新たな気持ちで再スタートを切ることができたのです。
 
 
心臓の手術から学校に通うことになるまで、わずか2か月くらいでしたが、本当に言葉では言い尽くせないほどの経験をしてきました。
命の尊さ、大切さ、人の優しさ、大切さ、思わぬ出来事、人生のどん底等、まるでジェットコースターに乗っているかのような日々を送ってきました。
このことは、一生忘れてはいけないですし、何かあったときの人生の教訓として、今後歩まなければなりません。20代でこういったことを経験して良かった、と後々思えるような人生にしなければいけないと思います。
 
 
次回は、半年間通うことになる職業訓練学校のことと、手術後の経過等を交えながら書いていきたいと思います。
 
今回も、最後までお読みいただきましてありがとうございました。