kimunori10’s diary

マラソン、スポーツ、トレーニングを中心とした雑記ブログ

なぜ仕事が続かないのか~パート6

福岡に来て正社員として働き始めて、約1年が経とうとしました。
 
ようやく職場に慣れてきて、おかげさまで私を指名してくださるお客様が少しずつではありますが増えてきました。
 
そして、プライベートにも多少時間のゆとりが出てきました。
また、仲のいいスタッフとたまにですが、プライベートで会うこともありました。
 
あと、将来のことも考えて、プライベートの時間にもセミナーに参加して、新たな知識を吸収したり、周りのトレーナーのセミナー参加者に刺激をもらったりしていました。インプットは外部で行い、アウトプットは会社内のスタッフで行う、といういい循環ができていたと思います。
 
だから、休みの日と仕事の日の過ごし方のバランスはちょうどよかったと思います。
 
ただ、仕事の上では、人間関係や会社の制度等で何度もやめたいと思っていました。
あまり詳しくは言えませんが、上司との関係、報酬について、待遇について等、いろいろと不満を抱えていました。ストレスをかなり抱えていたと思います。
 
このときの職場のよかったことは、愚痴を言えるような同僚がいたことです。
出勤前や仕事終わりに、食事やカフェや飲みの席、仕事帰り等でお互いいろいろなことを言い合っていました。
 
その時間は、私にとって本当にとても貴重で、お互いのことを理解しあえる存在の人が職場内に何人かいたことで、次の日、これから先の仕事を頑張ろうと思えました。
 
私にとっては、これらのことは良い面と悪い面が両方あって、楽しくもあり、つらくもあり、ほっとつくときもあり、苦労したり、と精神面の浮き沈みの激しい日々だったように思います。
 
また、女性の方が多い職場環境で、会員さんも女性が多い環境だったので、日頃の接し方や、発言、立ち居振る舞い、体臭・口臭等の臭いからちょっとした仕草に至るまでかなり気を遣っていました。それでも、自分では気がつかないような行動や言動は、上司や同僚から注意されていましたし、また女性の心理状態を学ぶことができて、このときはすごく勉強にもなりました。
 
結論から先に言うと、上記のことやいろいろな面で無理が重なってしまい、後々病気となって現れる形となってしまいました。
 
 
ここで仕事と少し離れてしまうのですが、この頃に以前から貧血気味で、症状が悪化していたこともあり、職場の近くの血液内科の病院で、鉄剤の注射を打ってもらっていたのです。
赤血球や血小板の数値が一般人よりもはるかに低く、とても走ったり運動したりできるような状態ではありませんでした。
 
市販の鉄剤をその前から飲んでいたのですが、症状が回復せずに血液内科で注射を打ってもらうことになったのです。結果的にこのことが、大きな失敗を呼ぶことになりました。
 
鉄の注射は、市販の薬よりも早く効き、しかも1回の注射でも効き目はかなりありました。
 
私は、仕事の昼休みや休日を使って、注射を週に1回くらいの割合で、2か月以上は続けて打っていました。
本当にみるみるうちに効き目が出てきて、それまでの不調が嘘のように回復して、走れるようになっていったのです。
 
ちなみに、この注射は正直ドーピングの一種です。
手軽に赤血球の量を増やせます。そうすることで、走っているときの酸素を取り込む量が格段に上がり、呼吸が楽になります。
私は、このことを経験したので、数値が正常値に回復してからも、しばらくは不安だからと注射を打ちに行っていました。
 
そのおかげかどうかは定かではありませんが、注射を打ち始めてすぐに、000mの自己ベストが出てしまいました。
このときは、調子がよかったので錯覚してしまい、11月にフルマラソン2本走り、12月にもフルマラソンを1本走ってしまいました。
 
そして、ついに身体が悲鳴を上げたのです。
フルマラソンの走りすぎで、身体的にもダメージが残り、内臓にも疲労が溜まり、疲れが取れにくくなってしまい、免疫力が落ち、そのせいで風邪を引いた、と思っていました。
 
すると、次第に熱も出始めました。その後、仕事に行けないくらいの高熱が私の身体に襲いかかったのです。
 
病院に行き、薬をもらい、事なきを得たかと思っていました。
しかし、薬を飲む直後は回復するのですが、効き目がなくなるとまた高熱が出始めます。
家の近くの病院に行っても、医者から風邪とだけ言われていたので、それを信じて薬を飲んで回復に努めていました。
 
 
それから数日後に、事件は起きました。それは忘れもしません。
12月のクリスマス前日でした。私はたしか昼から出勤する予定でした。
しかし、朝から体調が悪かったのです。39度近くの高熱がありました。
もう何回も病院に行っていたので、薬を飲んで自宅療養をしようと思っていました。
 
すると、突如吐き気を催し、しまいにはベッド横で激しい嘔吐をしてしまったのです。
その時は、とにかくパニックでした。
とりあえず職場に連絡しなければ、と思い電話しました。
そして、店長にその事実を一部始終話しました。しばらくしてから、店長とスタッフ1人が車で私の家に来てくれたのです。
その後、一緒に近くの大きい病院に行きました。しかし、そこでもお医者さんからは、症状は風邪の一種だと言われました。そこでも、解熱剤等のお薬をもらいました。
 
私は、全身がかなり弱っていたのと、精神的にショックだったこと、また会社のイベントに行けないショックとで、その日から数日は家で寝込んでいました。
 
 
それから数日後に仕事には行けたものの、熱は出たり出なかったりを繰り返していたので、ランニングはもちろん運動は控えていました。というより、走るとか、筋トレとかをするような身体の状態ではありませんでした。
 
私の状態は、なんとか仕事をこなしていたという感じです。はっきり言って無理していました。
なぜなら、高熱が出ている状況だったからです。そのことはスタッフ全員はもちろん、会員様もこのことは知っていて、イベントに出席していなかったり、欠勤したりしていたので周知の事実でした。
 
クリスマスや年末という忙しい時と重なり、このときの出来事はだいたい今でも覚えています。
 
その後なんとか仕事をこなしました。年末年始はお店が休業日だったので、そのタイミングで実家に帰ることにしました。
 
12月30日でした。なぜ覚えているのかというと、高校の同窓会があったからです。
夕方から夜にかけて開かれたので、なんとなくですが、そのときの出来事は覚えています。
 
 
しかし、その同総会終了後から私の記憶は途絶えてしまったのです。
ここからは、母親から聞いた話がほとんどです。
 
理由は、高熱でした。40度以上はあったらしいです。実家に帰った次の日に、またしても体調を崩したらしいのです。
そして、またしても高熱と激しい嘔吐をしました。
私の母親は、すぐに救急車を呼びました。
しかし、私は意識がもうろうとしていて、呼びかけにほとんど反応しなかったそうです。
 
救急車で近くの病院に行きましたが、その病院では対処しきれないということと、年末年始ということ、意識がはっきりとしていないということもあったのでしょう。
県内で1番大きな病院に、ヘリコプターで向かうことになりました。
そして、そのまま集中治療室へと行き、点滴を施す等の救急処置をしていただいたので、私の一面は取り留めました。
 
細菌が脳にまで達していました。髄膜炎なのですが、かなりひどい状態だったらしいです。もう少し処置が遅かったら、命を取り留められたとしても、脳に後遺症が残っていたかもしれません。
おそらく、実家に帰っていなかったら、かなり危なかったでしょう。
 
もちろん、私の記憶はこのときまったくありません。
気づいたら、病院のベッドの上でした。しかも、すでに数日が経過していました。
当たり前ですが、会社には出勤できません。ひと月近く集中治療室にいました。
 
 
私の家族を中心に、数多くの人に迷惑をかけました。
会社関係の方々はもちろん、会員様、友達、親戚にも多大なご心配をおかけしてしまいました。
 
意識が戻っても、最初は何が起きているのか理解に苦しみました。
記憶がない感覚との戦いと今起きている現実との戦い。
 
なんでこんなことになったのか訳が分からない状態なので、自分が酷い状況や、周りにかけた迷惑、病気の状況はもう少し後になってわかりだすのです。
 
これから先は、しばらくは仕事ができません。それと並行して短期間で、いろいろな経験を20代後半ですることになってしまったのです。
 
生きている間は一生悪れることのない期間のことを次回から書いていこうと思います。
 
本日も最後までお読みいただきましてありがとうございました。