kimunori10’s diary

マラソン、スポーツ、トレーニングを中心とした雑記ブログ

病んでいた時の思考回路について

「思い出したくもない過去、皆さんはありますか?」
 
恋愛、いじめ、学校、部活動、家庭、職場等の状況下で、様々な生き方を皆さんはしていることと思います。誰一人として同じような生き方の人はいません。
たとえ同じような人がいたとしても、そこに至る過程やプロセス、状況は同じ家族や家庭内でもない限り、全くと言っていいほど異なります。
 
また、生まれてきたときから心が病んでいて、治療が必要な程の精神状態だった人は、ほぼ皆無と言ってもいいでしょう
幼少期から成人へと成長するに従い、人格が形成されていく上で、その人のパーソナリティや性格、人柄が作られていきます。
もちろん、多少親の遺伝等はあるでしょうが、ほとんどは幼少期の頃に、形作られていきます。
性格が1人1人違うから、人間関係や人格は複雑かつ面白いのだと思います。ということは、当たり前ではあるのですが、身体も脳も何もかもが人は違います。
 
人は1人で生きていくことはほとんど不可能です。生まれてきて成長していくと、何らかの集団に属することになります。すると、仲間が形成されていきます。
もともとある集団の中から徐々に人は自分と波長が合う、合わないで仲間を作っていき、形成していく傾向にあります。
私は、幼少期の頃から人と比べられることが嫌でした。なるべく集団の中に属して、仲間、友達を作りたいから同じような性格の、波長が合うような人と集まっていました
だから、クラスの中でもいわゆる「目立たない存在」であり続けていたのです。当時はそれでいいと思っていました。
 
もちろん、人格や性格、内面的な部分を否定されたり、小馬鹿にしてきたりすることはもっと嫌でした。そのようなことをしてくるような人とは、極力関わることを避けていきました。
いじめに酷い、酷くない、どこまでがいじめかそうではないのかが明確にあるわけではないと思いますが、私は小学生の頃にいじめに遭っていたことがあります。
周りの人は、自分をいじめているとは思っていないと思います。からかっているだけだという人が多いでしょう。しかし、いじめられた人がそのように思ったのであれば、それはれっきとした「いじめ」に当たると私は思っています。
 
私は性格上、おとなしく、からかわれやすく、反抗してこないような子供だったので、そういう対象にされていたのだと今では思います。
そのため、その当時は自分がクラスの仲間から「ういている」と思われるのが嫌で、例えば多数決や意見決めの時、集団で物事に取り組む時とかには、クラスの仲間みんなと同じ意見に賛同したり、様子を伺いながら手を挙げたりしていました。
また、意見や答えを選択する際に、多数の意見はこちらであるだろうという方の選択に、自分の意思とは異なるときでも選んできていました。
今もまだ正直、そのような兆候が残っています。以前と比べれば、多少は自分の意見や意思は持てるようになってきたと思っています。
 
「病んでいた」という言葉の響きやニュアンスだとどうしても、かなりマイナスなイメージしか思いつかないことでしょう
以前の記事でも書いたのですが、学生時代に「病んでいた」ことよりも、社会人時代に「病んでいた」ことの方が記憶にも出来事にも強烈だったので、その時のことを書いていきたいと思います。
ちなみに、学生時代はもちろん、幼少期も含めて「病んでいた」といっても、不登校が長期間続いていたり、頻繁にいじめに遭っていたりしていたことはありません。
やはり、社会人時代の方が記憶が鮮明に残っていることもあってか私にとっては、「暗黒の時代、期間」といって差し支えない状況でした。
 
それはいつのことかというと、社会人に成り立てである、1年目の半年くらいのことです。
詳細は以前のブログに書きましたので、そこも参照にしていただければ幸いです。
私のその当時の状況を思いつく限り書き出してみると、
・ずっと疲れていたため休みでも疲れが取れた気がしなかった
・プライベートの時間をほぼ何もせずに過ごしたかった
・休みの日にまで人と会いたくなかった
・友達に相談することが怖くかった
・やることなすことが自信がなくマイナスな方ばかりに頭が働いた
・趣味や好きなことをやる気になれなかった
・趣味や好きなことをすることすら苦痛になっていた
・仕事に行くことが毎日苦痛だった
・考えることがマイナスなことばかりで段々生きていくことが苦痛になり始めた
・自殺や死にたいというようなことも考えるようになった
・自分がいなくてもどうにかなるだろうと思っていた
・いつもこの場から逃げ出したいと思っていた
上記は今、思いつく限りの当時の心境です。
行動に移したことと言えるのは、趣味や好きなことをせずに、家の中でただひたすらに引きこもって休日を過ごしていたくらいです私の好きなこと=走ること、そしてスポーツ観戦もしていたのですが、全くといっていいほど身に入っていませんでした
次の出勤日を迎えるのが嫌で、朝を迎えたくないという思いから、夜に眠れないことが多かったです。いわゆる「不眠症」です。
 
この頃「死にたい」というようなすごくネガティブなことを思うのはその時だけで、実際にそのような行為に走ることはありませんでした。
そもそも題名にあるような「病む」というのは字のごとく「病=病気」なので、本来は病院に通って治療する必要があります
しかしその頃の私の頭の中には、そのような考えに至ることはありませんでした。もしかしたらあったかもしれないのですが、素直に聞き入れていませんでした。
病院に行くことに抵抗があるのではなく、私が事の大きさを深刻に捉えられていなかったからかもしれません
 
私はその頃、頼れる人や相談できる人が近くにはおらず、友達も近くにはほぼいませんでした。強いて言うなら私の兄がいるくらいでした。
遠くに住んでいる親にメールや電話で、悩みや相談事はしていました。親にきついなら辞めなさいと、事あるごとに言われてていた覚えがあります。
もし親がいなければどうなっていたことかと思うと、想像するだけでゾクッとします。
もちろん、私の性格上の問題や物事の捉え方が良くなかったり、改善していく必要があったりしなければいけなかったのでしょう。
 
しかし、そう思っていても実際の生活、いや仕事の時には変えることができませんでした。
良くないことをした→怒られる、注意される→反省する→やる気をなくす→自信を失う→一応次に向かおうとする」その繰り返しがほとんどでした
本来は、「良くないことをした→怒られる、注意される→反省する→次に向かって同じことを繰り返さないように改善策を考えて実行する→失敗したことを活かす→それを身に付けて次の課題に向かう」というプロセスが一般的でよく行われることだと思われます
この段階に近いようなことを、するときとしないときの差が激しかったと自覚しています
 
当時の職場の同期は、私を含めて3人いました。しかし、職場のランクがある競争の中でも、私は同期に負けてたまるものかとは思わずに、次第にやる気をなくしていきました。こんなにもやる気のない毎日がしんどいものなのかと思っていました。
自信をつけたり仕事の能力を向上させたりしようにも何もかもができず、また職場内の話しやすそうな人に相談しようにも、顔色を伺ってばかりいて、困っていることや悩み事を自ら話すことはありませんでした。
 
逆に、上司や他のスタッフの方々から「何か聞きたいことはない?」「悩みはない?」と聞かれても、忙しそうだしどうせ聞き入れてもらえないだろうから私は「いいです」、「大丈夫です」というように曖昧に答えていた気がします。
同期とは話をしていましたが、その時の私はやる気がほとんどなかったため、自分の本心や本当のことはあまり話さず、ただおとなしくしていました。それに、自分のことを曝け出すようなことは滅多にありませんでした
 
今思えば、このような状況でよく半年間近く働いていたと思います。ただ、「働いた」「仕事をした」という実感や達成感はなく、本当に全てがきつかったということしか覚えていません
就職して半年も経たないうちに引きこもり状態になり、欠勤の連絡を職場にもしなくなり、私は「自主退職」という道を選択しました。そして、退職が決まってからは心がすっきりとして、すぐに転職活動をして比較的早く次の就職先が見つかりました。
 
 
本来であれば、3カ月間とかしっかり休んでから転職を探すというような方法が良いのでしょうが、私は1人暮らしをしており、生活費や生きていくうえでの金銭面はひっ迫していたため、実家に帰るという選択は頭にありませんでした。
 
私のような経緯をたどることは決しておすすめしません。なぜかというと、再発するおそれがあるからです。それに、定期的に病院で治療を受けていたわけでもないからです。
だから、もし当時の私にアドバイスをするのであれば、きちんと心療内科メンタルクリニックに通い、医師と相談しながら良くなり完治に結びつくように治療をしていくことが望ましいからです。
 
このように過去を振り返り、記事にしているのは、今現在私自身が成長して成功したからということではありません。ほんのわずかな期間ですが、上記のような様々なことを含めて経験して、この読者の一部の人にでもいいから何かを感じ取ってもらえたり、少しでも共感できるようなことがあったりしたらいいなと思ったので書いています
 
読者の皆さんの中には、私が幼少の頃に親から甘やかされて育ってきたのでは?と思う人もおられるかもしれません。
確かに、そのような声や意見があることは、甘んじて受け入れるつもりです。否定するつもりもありません。この頃に、何らかの方法や手段で、自分の精神的な問題を解決に導き、克服する手段を図っていたら何かしら変わっていたのかもしれません。
 
今は、そのようなことが考えられますが、置かれているその人の状況によって、対処の仕方や解決へのアプローチは変わっていきます。様々な情報や知識を得て真に受けすぎるのは問題がありますが、ある程度の意見を取捨選択して、自分の中に取り入れていくことはとてもいいことだと思います
 
もしこの時と同じような状況に戻れるとしたら、私の場合は休日に「読書をする」という手段と、「旅に出る」という手段をとると思います。両方ともこれを実行するメリットについて、以前の記事で書いていますのでご参考にしてみてください。
 
「運動する」や「外食に出かける」というような手段は、ほんの一時的に気持ちが和らぎはするのですが、長期的な視点から鑑みると、心や思考を「劇的に」変えるようなことは起きにくいと考えます。しかし、運動をするにしても仲間と一緒に行うスポーツであれば、仲間とコミュニケーションを図りながら、その競技で脳を使って、頭も身体もリフレッシュしやすいのではないかと思います
外食で友人と会っておしゃべりをしながら食事をするという行為も、重要なストレス発散方法のうちの1つだと思います。
 
嫌なことやマイナスになるようなことを離れる行為や思考回路、行動にもっていくには、他人の力を上手に使いながら行っていくことが何よりも大事だと今も痛感しています
もし1人暮らしとかで相談するような相手が近くにいなくても、電話やスカイプ等の通話でもいいのではないかと自分は思っています。メールやLINE等のメッセージのやり取りでは「すぐに」送らなくてもよく、時間を置いてから行動に移せてしまうのであまりお勧めできません。
電話であれば、お互いに話をするときに聴いたり話したりという行為を瞬時にしていく必要性があり、余計なことを考えずに済むからです
 
過去を振り返えることは大切ではあるのですが、現実に戻ってきません。「今」を生きていくしかないのです。マイナス思考や余計なこと、嫌な思考回路が強く働くときというのは、じっとしているときと何も活動していないときまた時間帯でいうと夜の暗い頃に多いのだそうです
そのような時間帯を避けてすぐに行動に移し、実行することが難しい人がいるかもしれません。
ただ、考え事をしたいときは日が暮れてからするのではなく、明るい時間帯にする、そして外に出て「セロトニン」を浴びて心身ともにリフレッシュしましょう
 
 
コロナ禍の昨今、家に閉じこもっている人が多い世の中です。どうしても、明るいニュースが少なく、気分が晴れないことばかりがあるかと思います。
運動をするもよし、時間を忘れて好きなことに没頭するのもよし、たまには気の合う仲間とおしゃべりするのもよし、あなたの心が晴れて、ストレスなく、1日1日が充実した人生になれる一助になる記事なったら幸いです
 
本日も最後までお読みいただきましてありがとうございました。